株式会社八天堂 代表取締役
森光 孝雅

ふんわり、優しいくちどけの「くりーむパン」が人気の八天堂。
挫折や再起を経て大ヒット商品を生み出した森光代表と、
社会貢献の思いを共有する小誌発行人・前田代表が
ビジネスとこれからのビジョンについて語り合った。
昭和8年に和菓子舗として
始まった創業90年の老舗
前田
今日は「くりーむパン」で有名な八天堂の森光代表を訪ねて、広島空港にほど近い、八天堂ビレッジに来ています。
 以前工場を訪れたとき、森光代表から、それまで100種類もあった商品を、「くりーむパン」たった1つに絞ったことを伺って大変驚きました。今日は色々なお話を伺いたいと思います。まずは御社の歩みについて改めてお聞かせ願えますか。
森光
はい、弊社は昭和8年創業で、私の祖父がここ三原の地で和菓子屋としてスタートしました。私は子どもの頃、祖父から創業当時の話をくり返し聞いて育ちました。「戦時中は物資が調達できないから、材料を求めて呉線の汽車に乗って闇市へ行ったんだよ」と。「砂糖や小麦粉を手に入れることが、お饅頭10個作ることがどれだけ大変だったか。でもお饅頭を食べたお客さんが笑顔になって感謝してくださって、食べ物っていうのはそれだけ人々を勇気づけたり元気にしたりするものなんだよ」。そういう話を子どもの頃に聞けたのが、今の自分のベースにあるのかなと思います。
前田
なるほど、わかります。
森光
当時はよく売れたそうですが、次第に他にお店が増えはじめ、父の代では業態転換して洋菓子も手がけるようになりました。三原にはまだ洋菓子店がない時代だったので当初は成長できたのですが、また他の店が増えるにつれ厳しくなっていきました。私はそんな中、神戸のパン屋の名店に修行へ行き、パンの魅力に惹かれ、三原に戻って焼きたてのパン屋をオープンしたのが平成3年です。まだ他に焼きたてパンの店がなく、お客さんもよく来てくれました。
前田
今年で創業から90年を迎えられるのですね。
森光
はい、こうして振り返ってみますと、厳しいときに成長を図ることができている。「事を為すは逆境にあり。事を破るは順境にあり」という言葉を改めて心に刻んでいます。
挫折から再起へ
とことん反省して前を向いた
前田
焼きたてパンのお店を13店舗まで拡大されたと伺いました。その後に、逆境を経験されたそうですね。
森光
パン屋を始めた頃は景気が良くてよく売れました。私はコンプレックスが強かったんですが、それをバネに「日本一のパン屋になろう!」と意気込んでいました。26歳の頃でしたが、お客さんから見えるお店の工房で、“日本一”と書いた鉢巻きをしてパンをこねていたほどです。大きくなりたいというところからスタートし、繁盛して、10年足らずで13店舗まで広げました。でもその10年間で外部環境が大きく変化しました。焼きたてのパン屋さんがどんどん増えたのに加え、それまで三原にはなかった大手コンビニが相次いで出店されるようになったんです。
 他に似たような店が増えて差別化が図れなくなり、それまで来てくれていたお客さんが他店へ流れ、客足が分散して環境が厳しくなっていっていたんです。しかし、私はその状況を直視することもなく、自分の夢に向かってひたすら突っ走っていたんです。念願だった神戸三宮、私が若いころに修行をした街に14店舗目を開こうとしていた矢先のことでした。オープンの数日前に、私の右腕だった店長が「辞めさせてほしい」と切り出してきたんです。そこから色々なことが大変になっていきました。
 今思い返してみると、私には“人に喜んでもらいたい”という気持ちはあったのですが、“自分が”喜んでもらいたいと、全部矢印が自分に向いていたんです。最初は個人店で高い給料を出して休みも多く、最高の職場環境だと自負していたのですが、10年経つうちに気がつくと真逆になっていました。休みはない、ボーナスはない、給与もどうなるかわからない…最悪の状況になっていたにも関わらず、私は自分の夢である三宮に出店して、地元広島のアンデルセンさんを抜いて一番になることにしがみついていたのです
反省を忘れて突っ走り
どん底を体験
前田
そんな大変なことになり、三宮店はオープンできたのですか。
森光
右腕の店長が辞めていったため、開店することができませんでした。私は自分自身を反省することができず、その彼を恨みました。念願だった店を開店する直前でしたから。でも、今振り返ってみると、彼は恩人なんです。もしそのまま無理をして開店していたら、会社は潰れていました。
 それから時間を置かず、「私も」「僕も」と店長たちが何人も、同じように「辞めさせてくれ」と来るんです。頭にきて、彼らに向かってひどい言葉を浴びせました。すると、黙って聞いていたある店長が口を開いて、「代表こそ、いい加減にしてほしい。今の状況をわかってるんですか」と言われました。
 それでも、私は反省できなかった。「なんで私の思いをわかってくれないのか」と思っていたんです。店長らがどんどん辞めていく。すると、開店できない店が出てくるんです。その当時、損益がトントンくらいでやっていたので、一気に財政が回らなくなって赤字になり、銀行から呼び出しを食らいました。忙しくて眠る時間も着がえる時間もなく、粉だらけの服のまま銀行に行きました。「私にはパンしか取り柄がないんです」というと、弁護士事務所に連れて行かれました。そこで弁護士から、民事再生法の書類を突きつけられました。そこで初めて、このままでは潰れるんだ、本当に厳しいんだということを自覚しました。昨日のことように思い出します。
 そのとき、弁護士のところに連れて行ってくれた当時の銀行の次長、私にとって恩人ですが、後年になって「なぜあのとき、弁護士のところに?」と聞くと、「森光さんには危機感がなかったから」と。「危機感というのは“何があっても乗り越えるんだ”という気概で、目を見たらわかるんだ」と言われたんですよ。なるほど、今だったらわかるんです。当時忙しくて疲労感、疲弊感はありました。でも、確かにそういう危機感というものはなかったなと思います。
当時の自分は、他責というか、何でも社員や周りのせいにする、典型的な“ダメな経営者”になっていました。そうすると負のスパイラルで、睡眠もとらず、店を開けなくては、と車で飛び回っているから、事故も起こすんですね。対物だったのが不幸中の幸いですが。
 社員も辞めていく中で、さらに辛いことがありました。こちらから辞めてもらうことです。これほど辛いことはないですね。
前田
店を閉めるから、辞めてくれということですね。
森光
はい、現地採用の社員には辞めてもらいました。パンが大好きで大好きで、入社してくれた社員の気持ちを折ってしまった経営者です。経営ってロマンがありますが、一つ間違えると周りに大迷惑をかける悪にもなる。そのくらい、経営というのは社会や人々に大変な影響を与えることなんだ、という認識が無く、自分の夢ばかりで突っ走っていました。
 夢と志って似たような言葉に見えます。当時の私は承認欲求から生じた夢を追いかけていました。自分が日本一になって自分がよく思われたい、という。けれど、「志」というのは、自分ではなく、相手や社会、未来に向かっている言葉なんだなと思います。相手のため、社員のため、公のための夢なら、周りも応援してくれますよね。そういう「志」は大いに語っていかなくてはと思います。
前田
同じ経営者として本当に身につまされる話で、業種の違いはあるけれど、私自身も社員に“なんでわかってくれないんだ”と思ったことは何度もあります。その後、猛省しましたが(笑)。
心の底から湧き上がった
経営理念
森光
「名経営者というのは何か問題が起きたときに、自分に何か足りないことがあるのでは、と自ら省みることができる」と言いますよね。「良いことが起きたときは周りの皆さまのおかげと感謝できる」とも。言葉としては何度も聞いた事はあるんですよ。なのになぜそれができないのか、と考えたときに、「経営理念が確立されていないからだ」と気がつきました。一応それらしいものは書いて掲げているんですが、心が震えない。つまり、その経営理念を自らの使命としていないんです。自分の人生を賭けて実現するぞというところまで到達していなかった。だから、大きい小さいにこだわってブレていたんです。甘くて行き当たりばったりの経営をしていたんです。数字も理念も曖昧な“どんぶり経営”でした。
前田
今の経営理念というのはその頃に新しく書かれたのですか。
森光
何度も書いては消し、書いては消しました。そして、どん底を経験した後に、湧き上がってきたのです。
 私の弟は栃木県でパン屋をやっているのですが、その弟がある日電話をして来て、「兄貴、いま大変らしいな。2千万円あるから、これで乗り切ってくれ」と言うんですよ。瞬間にピンと来ましたよ、あいつの全財産だと。だって借金して店を始めてまだ若くて、家族もいるし。
前田
えっ! 若いときに2千万を。
森光
そうです。それに、将来の夢も聞いてたんです。スーパーの中のパン屋だから朝早くから開けられないし、自分の好きなようにやるためにいつか路面店のパン屋を開きたいって。そのために貯めてきた全財産だというのがピンときました。もう、申し訳なくてね…。
 そしてそのとき気づかせてもらったのが、親の存在でした。それまで私は、心のどこかで親を見下げてたんです。親は1店舗でコツコツ働きながら、私と弟を育ててくれたんです。けれど、それまでの私は物事の価値を大小でしか見ていなかったので、親のことを“小さいことしかできてない”と見ていたんです。自分は13店舗もやってるし、何百人も雇っているから自分の方が大きいと。
 ところが、弟が全財産を投げ打って助けてくれようとしている。自分も子どもがいますが、はたして弟のような人間を育てる親になれているだろうか?と愕然としました。経営者という前に、人間としてはるかに及んでいないと。
 そして色んなことが思い出されてきました。私が小学2年生のときに行方不明になって、捜索隊やレスキュー隊まで出動して、救出されたんですが、そのときに親が「生きとってよかった!」と抱きしめてくれました。そんなことも忘れて、自分一人で大きくなって自分だけで生きているかのように思っていた。
 これじゃいけない、親の前に行って謝らなくてはという気持ちになり、会いに行きました。謝ろうと思ったら、ボロボロになっている私を見た父が、「孝雅、しんどかろう。死ぬなよ」と涙を流して。親を泣かせてしまいました。私はそんな親の足元で泣き崩れて、これ以上涙が出ないくらい泣きました。40歳前の男がですよ。そんな私の背中を父は一生懸命さすってくれたのを思い出します。そのときまで、私は“自分がいない方が周りに迷惑がかからない、と感じるほど心が冷え切っていたんですが、だんだん心が温かくなるのを感じました。「このままじゃいけない! もう一度やり直したい! もう一度チャンスを与えてくださるなら、必ず社員のために生きていく、必ずやりきるから」と、心の中で叫び、再起を誓いました。
 八天堂という会社環境は100%社員・スタッフのためにあるべきです。そして社員と共に一緒に作る「お品」。これはくりーむパン等の商品だけでなくサービスや付加価値ですから、直接お買い求めくださるお客さま、ステイクホルダーの皆さまのため。そして利益は未来のため。何があっても利益を上げていかないと未来につながっていかない、未来を創造できない。なぜならば伸びている会社経営は投資と会社の質量共に高まっているところばかりです。その投資の源泉を以前の私は他人資本でやっていたんです。理想は自己資本でやるべきで、その源泉は利益です。何があっても利益にこだわらないといけない。よく皆さんがおっしゃるのは、少なくとも営業利益・経常利益、共に10%出していかないといけないと。確かに中小は分母が小さいからそのくらいないと投資ができないんですよね。そのためには絶対的な付加価値を作っていかねばなりません。昔みたいなドンブリ経営じゃなくて、利益が出る収益構造を作っていこうという信条が出てきた。しっかりと利益が出る経営をする、それは何のためかというと、私たちはパン屋ですから、いいパンを作らないといけない、「良い品」。そして良い品を作るには作り手である人が良くないといけないから「良い人」。そして良い人を作っていくためには環境である会社が良くないといけないから「良い会社つくり」という経営理念が確立したのです。
前田
御社の経営理念の「良い品 良い人 良い会社つくり」という経営理念だけ伺ってもすばらしいのですが、そのバックボーンとして一番大変なところからの信条があるのがすごいなと思います。と、同時に、経営を良くしなといけない。経営だけ、売上だけに走るととんでもないことになりますからね。
森光
大小にこだわっていた、かつての自分のように、目的と手段を取り違えると大変ですね。
 どん底を経験した後、こだわりパンを広島県内全域のスーパーに卸して販売することでV字回復を遂げました。その後、「八天堂は社員のために、お品はお客さまのために、利益は未来のために」という信条が、心の底から湧いて出たんです。今の八天堂は、「食のイノベーションを通した人づくりの会社」を標榜しています。人づくりが目的・あり方で、それを為すための手段・やり方として食のイノベーションがあるわけです。ここをしっかりと間違わないようにしないといけないです。
ヒットを巻き起こした
くりーむパンの開発
前田
今おっしゃった食のイノベーション、御社の「くりーむパン」はまさしくイノベーションだと思います。今までなかったものではなく、既にあるものとあるものを組み合わせることで究極のものを生み出されました。その開発のお話を聞かせていただけますか。
森光
私は商品開発が最も得意で、どんなに忙しくても1日3品の新商品を作っていたくらい好きなんです。これまでに1万種類以上の商品を作っていると思います。広島のテレビやラジオでレギュラー番組を持って商品開発の話をしていたくらいです。ただ、開発した商品が珍しいと取り上げられるものの、すぐ売れなくなるんです。何でだろうと考えたら、ユニークだけど奇をてらってるんですね。売れ続けていくには奇をてらっていてはだめだなと。シュンペーターのイノベーション理論の中に、「あるものとあるものを掛け合わせた新結合」というフレーズがあるのですが、考えてみると長く愛されるものはスタンダードなんですね。それでその言葉を「スタンダード×スタンダード」と置き換えてみたんです。そうすると色々なものが見えてきて、パンでいうスタンダードといえば、あんパン・クリームパン・メロンパンですね。
 私は新商品は広島の三原から東京に送って東京で売って、東京から全国へと決めていました。
 先ほどお話ししたこだわりパンの卸しですが、三原から遠いスーパーだと運んでいるうちに冷えてしまうし、売り切れても追加で納品できないでしょう。うちのこだわりパンが売れているのを地元のパン屋さんが見て、うちもこだわりパンできますよとスーパーに営業に行くんですね。そうするとうちは遠くて不利なので逆転されました。このままじゃ厳しいな、どうすればいいかなと。小売りも卸もやり尽くした、自分にはパンしか取り柄がないし、と考えているとき、東京で人気の「1店1品専門店」を見て、これだ!と思いました。また、友人の和菓子屋が、「地元産のとてもいい素材を使っても三原では売れない。でも東京へ持っていくと飛ぶように売れるんだ」と話していたことも後押しとなって、新商品の開発に着手しました。
 東京に持って行くなら、まだ無いものでないといけない。しかも、遠いですから冷えてもおいしいものでなくてはならない。そうすると焼きそばパンとかカレーパンのような、出来たてを味わうものはやめて、菓子パン系に取り組みました。1年半かかりましたが、スタンダード×スタンダードの掛け合わせで、「パン」と「くちどけ」を掛け合わせた「くりーむパン」という結論に到達しました。
 くちどけなら生クリームですが、生クリームを入れると焼き込みができないのです。焼き上がったパンに後から注入しないといけない。シュークリームは生地に空洞が多いですが、パンは目が詰まっているから結構量が入ります。でも、時間が経つと破れ出てしまうんですね。それと、パンは性質上5℃前後、つまり冷蔵庫の温度で保管すると固くなるんです。東京にも無い、シュークリームのようなくりーむパンを作るには、時間が経っても破れ出ず、冷蔵庫でも固くならないというこの2点をクリアしなければいけない。
 私の親が洋菓子を作っていたのですが、そういえばショートケーキって冷蔵庫に入れるけど固くならないな、とふと気がついて。食パンにクリームを塗って時間が経つとクリームの水分を吸ってしまいますが、スポンジ生地ならしっとりします。同じ小麦粉でも食パンは強力粉、スポンジ生地は薄力粉なんです。なるほど!小麦粉の種類によって水分との相性が違うんだと気がつきました。薄力粉をメインにパンを作ったらいいんじゃないかと、薄力粉の割り合いを増やしていったら、増やせば増やすほどクリームが飛び出なくなり、時間が経つほど生地がやわらかくなっていくんです。そしてついに最高の配分を見い出しました。当時はこの工場から空輸していたので、東京までの半日で、ちょうどしっとりします。時間が経てば経つほど柔らかくおいしくなる。そんなパン、他にはどこにもありませんでした。
 スイーツって本来商品サイクルが短いので、息の長い商品にするため、徹底的にこだわりました。カスタードを炊く銅鍋の厚さから、火力やホイッパーの種類、タイミングなど。そして包装は包装機など使わず、1個1個手包み。大手には真似できないように、印刷せず1枚1枚ハンコを押しました。他社が面倒くさくてやりたくないようなことをやれば真似されないんです。ハンコで押すからかすれたりして、でもそれが味わいがあって良かったんです。「本当に手作りで手作業なんですね」って言われるようになり、結果的にそれがブランドになりました。
 そうして15年、くりーむパンが愛されている理由のもう一つは“市場”です。経営学者のドラッカーは“市場創造”と言っていますが、「手土産」という市場があったんですね。お客さまから「手土産用の箱はないの?」と聞かれて、気づかせてもらえました。そんな色々なことが複合的にあって、何とか今も支持して頂いています。
前田
八天堂さんの「くりーむパン」は私も一昨日、東京出張するときに買って行きました。もう東京の方も皆さんよくご存知なのでね。
森光
ありがとうございます。
育ててくれた地域に
恩返しできる事業を展開
前田
その後の成功は皆さんもよく知っていると思います。そこから食と体験の複合施設としての八天堂ビレッジの構想は、どのような経緯で生まれたのでしょうか。
森光
私はこの三原という地元で生まれ、地元に育てて頂いて今があるんだと感謝しております。地元無くして私はありません。ふるさとに徹底的に恩返ししていきたいと思っています。恩返しのやり方も、ただ売れて税金を納める、雇用するという当たり前のこと以外にも、自分にしかできないことは何だろうかと考えました。
 私は25年位前からパン作り教室の講師として、色々な社会福祉施設へ行かせて頂いています。ほんとに経営が厳しいときって忙しくて寝る時間もなかったので、経営者の勉強会などは辞めさせてもらいましたが、このパン教室だけは辞めようと思いませんでした。自分の存在意義を見失いかけているときでも、パン教室で一緒にパンを焼くと、利用者さんがすごく喜んでくださるんですよ。皆さん、「楽しみに待っていました」とおっしゃるんです。利用者の親御さんが「この子がこんなに喜んでくれるなんて、これからもがんばって生きていこうと思います」と泣いて御礼を言ってくださったりするんです。私自身が、自分で自分は世の中に必要ないのではと感じているときに、皆さんが私を必要としてくれているんだと思うとうれしくて、一緒に泣いたこともあります。それを毎月のように経験させてもらって、皆さんのことは、私を支え勇気づけてくれた恩人だと思っています。そんな地域の皆さんにいつかは恩返ししたいという思いが、八天堂ビレッジと農福連携の八天堂ファームの設立につながりました。
 以前の私は、1を言えば10を理解するような、手が早くアイデアが出せる人を「できる人間」、そうでない人を「できない人間」と分けていました。今思うととんでもない勘違いです。申し訳ないです。かつて、店長らが離れていったとき、私が思っていた「できる人間」から辞めていったんです。でも、そのとき私を支えてくれたのは、コツコツと朝早くから夜遅くまでパンを作ってがんばってくれた人たちなのです。彼らがいなかったら、倒産しています。この世には「できない人間」なんていません。縁があって一緒に働いている以上は、何があってもこの人たちを幸せにしないといけない、という思いが、私の根底にあります。
 その中で、農福連携の体験型の施設を作って地元に貢献していきたいと、八天堂ビレッジを構想しました。元々商品を空輸するため工場は広島空港に近いこの場所に置いたんですが、最初、周囲は雑草だらけのところでした。でも、眺めやロケーションは抜群でしょう。
前田
確かにすばらしい場所ですね。
森光
ここで何かできるんじゃないかと、広島の空の玄関口でもあるから、活性化に寄与できるのでは、という思いで構想し、10年かけてここまで来させてもらえました。
前田
さらに今後、やってみたいというものはありますか。
森光
スローガンを「広島・三原から東京へ、東京から全国へ、そして日本から世界へ」と掲げました。これから日本は人口減少時代になりますから、人が増えているところへ出ていかないといけません。私どもは胃袋が相手の仕事ですから。それで8年前にシンガポールに会社を設立しました。カナダやマレーシアにも広がって4カ国で現地生産し、5カ国で販売しています。これからもグローバルに広げていきます。
 国内に話を向けますと、人づくりのためにはくりーむパンだけでは限界があるので、たとえばJALさんと協同開発して羽田で販売させてもらったり、それぞれの地方の食材や食文化を取り入れたふるさとくりーむパンを作らせてもらったり、大手メーカーのロッテさん、ファミリーマートさんなどとコラボレーションしたくりーむパンなどに取り組んでいます。1社の力は限られていますが、応援してもらえる会社になれば、1の力が3にも5にも10にもできる。アライアンスやコラボレーションをしてもらえるような会社になっていくために、キラリ輝く自社ならではの商品・技術・サービスが必要だと思います。そして10年後100年後のビジョンに向かって、どういう会社になっていきたいのか。困っている会社、活性化したい自治体などに、食のイノベーションを通じてお役立ちできたらいいなと思っています。つまり、企画・アイデアの会社になっていきたいです。アイデアだけだとコンサル会社ですが、我々は国内外に販売チャネルを持っています。農家やメーカーをアイデアでつなげ、販売という出口まで提供できればと思っています。
 北海道に会社を立ち上げ、インバウンド市場へ向けてお土産屋さんとも一緒に商品サービスを開発して、国内外にお土産文化を発信したい。また他にも、和と洋を掛け合わせた新たなブランドを立ち上げようとしています。
 そのように、色々な方々のお役に立ち、そしてお役立ちできる人財を育成していくことが大きなビジョンでしょうか。
前田
スイーツパンだけに限らずコラボやアライアンスをしながら、色々なことに取り組んでおられるのですね。共通するのは人づくり、いい商品ということですね。
森光
社員を大切にする、地域に貢献したいという思いに共感したところと一緒にやっていきたいです。
前田
私どものような住宅リフォーム会社とのコラボやアライアンスをするとしたら、どうでしょうか?
森光
千葉の建築会社のアンテナショップに、千葉オリジナルくりーむパンを置かせてもらっていますが、もっとしっかりしたコラボで逆にマエダハウジングさんからアイデアを提案して頂けたら。全く違う業種だからこそおもしろくなりそうです。
前田
実は週末リノベカフェといって、住まいについての相談を聞きながら、地元の洋菓子屋さんのスイーツとコーヒーが楽しめるイベントをやっています。何かもっと考えてみたいですね。
森光
ご提案頂いて一緒にやることで、地域貢献にもつながると思うんです。
前田
弊社は地域貢献にも力を入れていて、東広島市の西高屋駅前で、空き家をリノベーションして大学生が集い活動できるビレッジ作りに取り組んでいます。
森光
それはいいですね。私は素人の発想で、三原産の大粒の食米を磨いて三原の酒蔵に純米大吟醸を造ってもらったんです。なんと、G7初日の晩餐会で使われたそうで、三原のためになれたなと思いました。同じものを、三原・久井をもじって「M91」と私が命名し、販売することにしました。
前田
それは飲んでみたいですね。また新たな商品が生まれそうです。それでは、最後ひとこといただけますでしょうか。
森光
そうですね、私は人間の能力の差ってないと思っています。振り返ってみると、私より勉強ができる人、パン作りがうまい人、経営ができる人…できる人はいっぱいいるんです。成長してがんばっている人に共通するのは、愚痴や不平不満を言わないことです。目標のためにどうすればいいかを前向きに考える、常に思考回路がポジティブです。それと、何と言っても“思い”の差です。稲盛さんは熱意と仰っていますし、永守さんは情熱、執念と表現されています。結局、どれだけできたかは、能力の差ではなく思いの差だと。こうなりたい、という思いの強さが、人生や会社を変えると思っています。
前田
八天堂さんがここまで来られたのはその思いが積み重なってのことですね。今日は貴重なお話をありがとうございました。
株式会社八天堂
代表取締役
森光 孝雅
Profile/1964年広島生まれ。パン職人として神戸の名店で修業後、1991年に広島県三原市で「たかちゃんのぱん屋」を開店。1997年より代表取締役代表に就任。スイーツとパンを融合した「くりーむパン」を開発し、2009年に東京初出店、大ヒットとなる。著書に『廃業の危機を味わって本気で取り組んだ人を大切にする 三方よし経営』がある(モラロジー道徳教育財団)